5月下旬から6月にかけて、我が家は順番に体調を崩しました。始まりは娘と夫の咳。
それが1ヶ月近くも続き、結核や肺炎を疑い、やがて家族全員に広がっていきました。
看病しながら考えたこと、不安だったこと、そして学んだことを、記録として残しておきます。
始まりは、ただの咳だった
最初は、本当にただの咳でした。
5月20日ごろ、娘と夫がほぼ同時に咳をしはじめて、はじめは私も「風邪でもひいたのかな」くらいにしか思っていませんでした。
このころは、まだ余裕がありました。
ドラッグストアで薬を選ぶとき、龍角散のパウダーを面白半分でカゴに入れたくらいです。
自分では使ったことがなかったのですが、CMでよく咳に効くと言っているし、パウダーを飲むという他の薬とは一風変わった感じが面白くて、ネタのつもりで買ってみました。
そのくらい、まだ事態を軽く見ていたのです。
市販薬で数日様子を見たあと、5月23日に娘と同じ小児科を受診しました。
娘には痰切りの薬が、夫にも痰切りと吸入薬が出ました。
これで落ち着くかと思いきや、夫の咳は良くなりません。
最初は出社できていたのに、夕方になると寝込むようになり、その様子に私はだんだん引っかかりを覚えはじめます。
大人が、こんなに毎日寝込むものだろうか。喘息か何かだろうか。
なんだか、おかしい。
咳に特化した処方が期待できればと、5月30日には呼吸器のクリニックを受診してもらいました。
それでも、良くなりません。6月6日にはとうとう発熱し、6月8日に再び受診することになります。
5月20日にただの咳だと思っていたあの頃には、ここから1ヶ月近くも咳が続くことになるなんて、想像もしていませんでした。
結核かもしれない、肺炎かもしれない
咳が2週間以上続き、夕方になると微熱が出る。この組み合わせを見たとき、まず頭をよぎったのは結核でした。
現代の日本では、そこまで心配する病気ではないと言われています。
それでも、根絶されたわけではない。2週間以上続く咳と夕方の微熱は、結核を疑う最初の一歩でもあります。
肺炎も、当然疑いました。
発作のような激しい咳がもともと続いていたところに、熱まで加わった。
こうなると、これはもう普通の風邪ではないだろうと感じていました。
私なりに調べて、「歩ける肺炎」と呼ばれるマイコプラズマ肺炎や、百日咳の可能性も頭に浮かべていました。
日中は普通に動けるのに、夕方になると発熱して寝込む。その経過が、どうにも引っかかったのです。
でも、診断がつかないこの期間、私が一番怖かったのは、夫自身のことよりも、娘にうつることでした。
娘はまだ予防接種をすべて打ち終わっていません。世の中には、ワクチンで防げない感染症もあります。
しかも娘は早産で生まれていて、免疫が弱い可能性があると、ずっと心の片隅で気にしていました(保育園で手足口病が流行ったときにかからなかったので、案外強いのかな、とも思っていましたが)。
そして、夫の熱が夕方に38℃まで上がったとき、「これは本気でやばいかもしれない」と思いました。
咳が始まってから、3週間近く。熱が出たということは、良くなっていないどころか、むしろ悪化している。
どこかで新たな感染が起きているのかもしれない。
もしかしたら、普段なら負けないような弱い菌やウイルスにすら勝てなくなっているのかもしれない――そんな、免疫不全のような不安まで頭をかすめました。
頭の中は、その先のシミュレーションでいっぱいになりました。
もし入院したら、お見舞いはどうしよう。
0歳の娘は、たぶん病室には入れない。でも、どこかで待たせておくこともできない。
お見舞いに行けるとしたら、保育園が開いている平日の日中だけ。
でも、その時間は仕事がある。しかも今は繁忙期。しかも復職したて。
どうしよう、どうしよう、ばかりが、ぐるぐると回っていました。
実際、夫が熱を出して、抗生物質を飲んで、ようやく解熱するまでの間、私は毎晩のように同じ夢を見ていました。
夫が肺炎で入院する夢です。
毎回少しずつパターンが違って、救急搬送される夜もあれば、そのまま呼吸器につながれてしまう夜もありました。
朝起きるたびに、ほっとすると同時に、また同じ不安が始まるのです。
検査の値が一気に跳ね上がった
6月8日、再びの受診で、レントゲンと採血をしてもらいました。診断は、気管支炎。
正直なところ、最低でも気管支炎くらいにはなっているだろうと思っていました。
私はずっと肺炎を想像していたので、それに比べれば、思ったよりは軽かった、というのが第一印象です。
咳そのものの根本の原因は、結局はっきりとはわかりませんでした。
それでも、あの厄介な発熱が気管支炎によるものらしいとわかっただけで、ずいぶん気持ちが楽になりました。
一番怖かった肺炎ではなかった。
それだけで、心底ほっとしたのを覚えています(結核のほうは、可能性がゼロではないというだけで、さすがにほぼないだろうと思っていました)。
炎症の値が一気に跳ね上がっていた、と聞いたときは、「やっぱりな」と思いました。
というより、最初の受診のときの低い値のほうが、私にはどうも腑に落ちていなかったのです。
あんなにつらそうなのに、本当にこの数字なのかな、と。今回の急上昇で、ようやく数字が実感に追いついた感じがしました。
驚いたのは、出された薬の種類の多さです。
なかでも、抗生物質が2種類も出たことには目を見張りました。
抗生物質って、2種類同時に出ることがあるんだ、と。最近は昔ほど気軽に抗生物質を出さなくなった、という話は聞いていました。
だからこそ思うのですが、もしこれが昔のように「風邪ですね、抗生物質出しておきますね」の時代だったら、案外1週間くらいで治っていたのかもしれない、なんてことも頭をよぎりました。
ふと、ドラマ「仁」でペニシリンを作るシーンを思い出しました。抗生物質が一つあるだけで、世界はこんなにも変わる。看病でくたくたになりながら、妙にその場面が腑に落ちたのでした。
薬を飲んでも、すぐには効かなかった
抗生物質をもらって、これでようやく治る。そう思っていました。
ところが、飲み始めてもすぐには良くなりません。
2日目で熱が少し下がったものの、夫は「全然効いていない」と感じていたようですし、見ている私も、正直そう思いました。
あれだけしっかり薬が出たのに、どうして劇的に良くならないんだろう、と。
でも、あとから知ったのですが、抗生物質は飲み始めてから効果が出るまでに数日かかることが多いそうです。
熱が段階的にゆっくり下がっていくのは、むしろ典型的な経過なのだとか。
一気にドラマのように下がることのほうが、実は少ない。
そう聞いて、焦って2日や3日で「効いていない」と判断しなくてよかったのだと、ほっとしました。
それに、咳や発作は気道の炎症によるもので、抗生物質とはまた別の経過をたどります。
一度大きく上がった炎症が収まるには1週間ほどかかり、咳や発作はさらにもう1〜2週間続くこともある、とのことでした。
ただ、正直に言うと、「すぐ効く」と思い込んでいた分、薬を飲み始めてもなお家事を何一つ手伝えない夫に、少し不満を抱いていました。
でも、ここで何を言っても仕方がない。
だから黙って、耐えていました。自分の体ももう限界に近かったけれど、鞭打つようにして、なんとか毎日を回していました。
この時期が、メンタルの面では一番こたえたかもしれません。
夫が寝込んでいた2週間ほど、私はほとんど誰とも会話をしていませんでした。
日中は仕事、夜は娘の看病と夫の世話。大人とゆっくり言葉を交わす時間が、まるごと消えていたのです。
だからこそ、回復のサインも、会話から訪れました。
それまでは少し話すとすぐ咳き込んで、「もう部屋で寝るね」となっていた夫が、ある日「今日こういうことがあってね」と、自分から話しかけてきたのです。
その何でもない一言で、ああ、良くなってきたんだ、とわかりました。
薬が効いたとか、熱が下がったとか、そういう数字よりも先に、夫がまた会話する気力を取り戻したことが、私にとって一番の回復の証でした。
実際、夫がもう一度出社できるくらいまで回復したのは、抗生物質を飲み始めてから10日ほど経った頃でした。
そして、家族へ広がっていった
夫がようやく回復に向かいはじめた、まさにそのころでした。今度は娘の咳が、目に見えてひどくなっていったのです。
実は娘は、夫が体調を崩していたこの1ヶ月の間に、2回も風邪をひきました。
一度よくなったと思ったら、また咳がぶり返す。
その2回目が、ちょうど夫の回復と入れ替わるようにやってきたのです。
夜中、痰がからんで何度も目を覚ます。
そのたびに抱き上げて、落ち着くまで待って、また寝かせる。
[看病と夜泣きが重なった夜に、私が手放したもの]に書いたあの夜の繰り返しが、ちょうどこの時期と重なっていました。
夫の看病が一段落したと思った矢先に、今度は娘の番が来た。
順番に倒れていく家族を見ながら、終わりがどこにあるのか、わからなくなっていました。
私自身にも、多少は咳や鼻水の症状が出ました。
気管支炎そのものが直接うつるわけではなく、おおもとになっていたウイルスが家庭内をぐるりと一周した、という形なのだと思います。
ただ、私の場合はそれほど重くならずに済みました。
看病する側が完全に倒れてしまわなかったのは、不幸中の幸いだったと思います。
家族の誰かが体調を崩すと、結局は家じゅうに広がっていく。
とくに小さい子どもがいる家では、完全に防ぐのは難しいのだと、身をもって思い知りました。
だからこそ、次に誰かがうつるかもしれないと早めに想定して、動けるうちに動いておくことが大事なのだと思います。
看病する側にも、限界がある
この1ヶ月、何が一番しんどかったかと聞かれたら、迷わず「終わりが見えないこと」と答えます。
夫の体調も、娘の体調も、いつ良くなるのかわからない。仕事も同じでした。
新製品の発売があり、その次に前の製品のモデルチェンジが控えていました。
本来なら、発売からモデルチェンジまで10日から2週間は空くはずで、その隙にどこかで1日有給を取って、泥のように眠れば回復できる――そう思っていました。ところが、新製品の発売が1週間遅れ、モデルチェンジが1週間早まった。
空いているはずだった隙間が、きれいに消えてなくなったのです。
休めるはずだった場所がなくなる。良くなるはずだった人が、またぶり返す。眠れるはずだった夜が、また潰れる。
「あと少し」と思った先が、ことごとく後ろにずれていく。
その繰り返しが、体力以上に、心を削っていきました。
そして、みんながようやく治りかけてきた6月20日過ぎ。
最後に倒れたのは、私でした。といっても、熱でも咳でもありません。
口唇ヘルペスです。
唇にぴりっとした違和感を覚えたとき、不思議と、ショックはありませんでした。
むしろ、妙に納得してしまったのです。
だって、限界だったから。とっくに限界だと思っていたところに、もう1イベント来たから。体が「もう無理です」と、いちばんわかりやすい形で白旗を上げたのでしょう。
唯一の本音を言えば――よりによって、人前で喋らなければいけない週にできなくても。
せめて来週だったら、まだよかったのに。そんなことを思いながら、私はそっと薬を塗ったのでした。
看病する側にも、ちゃんと限界があります。家族の誰かを支えている人ほど、自分のことは後回しにしがちです。
でも、心と体は、こうしてきちんとサインを出してくれます。そのサインに気づいたら、どうか、自分のこともいたわってあげてください。
(看病で限界が来たとき、私がどう日々をしのいだかは、こちらの記事に書いています → [看病と夜泣きが重なった夜に、私が手放したもの])


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